生活の中で「車椅子だから○○」といったバイアスが共生社会の妨げになる
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車椅子ライフデザイナーのまおうです。1996年に交通事故に遭い、20年間の車椅子生活をしております。その間には、乙武洋匡さんの著書「五体不満足」などの登場で、少しずつ障害者を取り巻く社会が変わりました。
どうしても人を決めつけてしまうバイアスがかかってしまう
それでも未だに「車椅子だから〇〇」という目で見られてしまうことは多くあります。これは生活をしていく上や仕事をしていく上でかなり厳しく感じます。「障害者だから〇〇」「車椅子だから〇〇」といったことがなくなる社会になってほしいと願っております。
私は仕事をしていく中で、実績を出せば認められると思って仕事をしてきました。ところが残念ながら「車椅子だから〇〇」という判断をされたことは多々あります。「車椅子だから○○のポジションについてもらっては困る」といわれり、思われたりしたことは何度もありました。
企業の中ではリスクマネジメント上で、車椅子利用者だと地震・事故・事件・クレームなどが発生した時に対処ができないと思われてしまうことが度々ありました。確かにそう思う人が多いのは理解できます。弱者になりかねない部分を想定してしまうでしょう。
初めから理解してくれない一部の人がいたのには困った
でも実際に地震・事故・事件・クレームが発生したときに、店舗責任者として幾度も対処をしてきました。決して現場で重いものをもったりすることではないんです。あくまで現場で指示したり、解決の糸口を探したりすることは車椅子に乗っていてもできることです。
それでも人によってはバイアス(偏り・偏見)がかかるんです。バイアスがある以上は、障害者と健常者の共生社会にはなりにくいと思っております。これについては女性の方々も同様だったと思います。
「女性だから○○」というバイアスがかかり、経営幹部への登用なども男性中心の社会になってしまったと思います。その人の実績を見ないで、女性だから○○で決めつけてしまうようなことが、よくあったはずです。
私も以前の上司(女性)が、職場内で「女性だからリーダーにするのを認めない」と言われたそうです。実績を積んでも認めてもらえない悔しさがあったと聞きました。これこそがバイアスによる問題です。
車椅子を利用している人との接触がないからこそバイアスがかかる
話を元に戻すと、私は最近いろいろな活動をしていると「車椅子利用者と話したことがない」という人が多いのが現状です。だから「車椅子だから〇〇」といったバイアスが余計にかかってしまうと思っております。
当然、自分の家族・友人・知人などにいなければ、話す機会がないのかもしれませんが、街中には障害をお持ちの方や高齢者で車椅子を利用されている方など結構いるものです。また50人以上の企業で法定雇用率を達成している企業であれば障害者は1名以上はいるはずです。(法定雇用率2.0%)でもその人と話したことがないというのをよく聞きます。
コミュニケーションが高まればきっと垣根がなくなるはず
いろんな人とコミュニケーションを深めていくことで、自分自身には見えなかった知識や体験がより一層磨きがかかると思っております。健常者と一緒に触れあっていくことが、障害者と健常者との垣根をなくして、共生社会になると思っております。まずはいろんな人がいることを知ることが差別のない社会になっていくと思っております。
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